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看板より抜粋
この周辺は通称「多賀新田」と呼ばれた集落跡であり、古老の話によると当地は江戸時代の中頃に開拓され
新田開発によって生産された米は三十石、うち二石は禁裏御領地の為、代官を通じて献上。
昭和初期までは生活の場があったという。現在この地には、「一七七一年」の年号を刻む六体石仏と
代官屋敷跡などがわずかに名残をとどめている。( 別に合体して巨大石像になったりしません。)