道のたもと、看板があります。

看板にしたがって300メートル進むと左手方向にあります
すぐ隣は、民家があります。 失礼のないようにお参りください。
大正池看板より(江戸時代後期の漢方医とあります、師は「私の墓に参ったものには、ひとつだけ願いをかなえてやろう」と言う
言葉を残したと、伝えられています。 この話についての説明が見つかりません

中神琴渓 
[なかがみきんけい] (923情報ネットより抜粋しました。)
1744(寛保4)年に草津の南山田町に生まれた琴渓は、自分の学んだ医学にこだわらず、従来の方法が患者に合わなければ、
いろいろな治療法を取り入れて患者にあったものを追求しました。
30歳を過ぎてから医学に入った琴渓は、「100人に90人は正しい生活をしていれば治るもの。むやみに薬に頼るのはよくない。」
として、目の前の患者の状態を見て治療にしました。この考え方は現代医療に精通するものです。

謎の人です どういった経緯でここに来られたのでしょうか? 

別の検索をすると 京都で開業、晩年は田村新田(有王地区)ですごす とありました。 (井手町まるごと体験館より抜粋)

こんな話も(東洋医学誌研究会より抜粋)

文政年間の京都の医界で名医として知られた中神琴渓は、近江国山田村の貧農の家に生まれたが、
独学奮励して医者になった人物である。 彼には次のような「死を予知する」ということに関連した逸話がある。
三十を過ぎたある日、いつものように野菜の行商で大津まで出て、ある髪結床に作物を買ってもらい、
そこで一休みしていた時のことである。 床屋の親方が妙なことを口にした。先程帰った客の老人は気の毒だが
近いうちに死ぬだろうと言うのである。 それを聞いて半信半疑でそれとなく気に止めていたところ、はたしてその老人は
幾日かして本当に死んだ。 琴渓は驚いて、なぜ予知できたのかしつこく親方に尋ねるとその理由を話してくれた。
「これまで何千人もの髪を結ってきたが、死が近づくと決まって代月の所に証が現れるのが分かるようになっただけの事だ」と。
琴渓はこれに大いに感じた。髪結床の親方さえこれだけのことが分かるのである。自分も医者となりその道を極めれば、
人の生死を予見できるようになると。 一大決心をした琴渓は医学書を漁り、
その中でも特に六角重任著・吉益東洞閲『古方便覧』二巻を精読・研究し、ついに四十九歳のとき京に出て開業したという。

医療=薬ではなく、その人に合うのならどんな行為も医療となりうると考えていたひとではないでしょうか?
今の薬漬け医療を、このころから戒めていたようです。